気がつけば45を過ぎていた自分。
マンション生活を捨て去り、千葉市でエアストリームに住んでもうすぐ10年。
どうして今こんなことになっているのか少し振り返ってみた。

多少の無理や残業も職責を自覚し頑張り耐えることが大人であり仕事だと考えていた30代のサラリーマン時代。
企業と個人、仕事と生活理想とのギャップを感じる日々。成功しても失敗しても納得できる
サラリーマンとしての存在理由とはなんなのか。自問自答するも納得できる答えは無かった。
ずっと答えが見えずに急速に過ぎていく日々。
いや、答えなんかないと、今そんなことは重要ではないと自分を納得させようとしていた。

分かるはずも無い当時の自分。
誰も教えてはくれない、社会のさまざまな問題と自分の人生選択。
一体、学校を出ただけで、何がわかっているのか?
当時の自分には、東京でのサクセスドリームを妄想することしかできなかった。
ただ世の中で流布しているサクセスストーリーを夢見て、その平和な社会システムを
疑いもせず素直に信じていただけ、、、そう素直な青年であり、社員であり、夫であり、息子であった。
また、そう願っていた。 大人の要求に耐えてこなしていけば何かが待っている。きっといいことであり、
正しいことであろうと。
運がよければ。 親をそして妻をも幸せに出来るはずだと。
そのためにはきっと忍耐が今は必要なのかと信じていた。

ある日。大人が大人の責任をとれない社会のしくみがあることがやっと分かった。
誰をも責めることも出来ない、やむをえない事実・現実。
知らず知らずの間に、みんなそれでやっているのだから、、
みんなと同じだから、、、
私一人だけが苦しいのではないから、、
そんなことばだけが、まとわり着いてきていた。

誰も本当の意味でこの社会では責任は取れないのか、と、 その時、
良い意味でも悪い意味でも、自分も大人のガワになったと感じた。だけど、染まっていくのを肌で感じた時、
本当の自分の感性を信じたくなった。
いや、いや、
おかしいのは俺なのかもしれないが、、
自分の人生だとしたら
いったい自分を信じないで、誰を信じろというのか?
少し自分の生きる道をゼロから見直せる気がしてきた。

自分と対峙しているもの、それは現代の東京という都市、経済、価値観、社会システムであり
そのなかで、たった今、呼吸している自分のおかれている状況"自分が選んできた選択肢"だった。
そして、たしかに、それにNOを言える自分がいることの事実。

多摩美大卒業後から幸運にもデザイナーのつもりでオトナ社会に入れ貴重な経験をさせてもらった。
現代社会の理想が価値が見えているつもりで、現実がからまわりしていた青年期。

時間に追われる都会での一般的な大人のライフスタイル。
一見すると外見的には幸せと言えたにちがいない。
自己満足できる仕事・責任と夢と理想、常識的価値観と歳相応の人生設計のつもりでいた。しかしそれは、
本当の現実の危機的問題を無視し続け、頼るべからざるもの脆弱な都市基盤・経済構造と
その都市が基礎としている地質学的な基盤はもとより、戦後の世界経済の歴史に由来する
根本的な問題に直結していた。

いつ破綻してもおかしくない企業活動に寄り頼むこと、みんなが信じているあたりまえなこと。
サラリーという架空の安定と逃れることの出来ない債務。

こうして流されていては、自分もそして家族もが多くの犠牲者の一部となって
嘆く瞬間が来るとき、、いったい自分は自分が許せるのか?
嘆く時もみんなと一緒なのか?
死ぬ場所と時は選べないのは知っている。でも今生きている自分がこう考える意味が
何かあるなら、生きている間だけは自分に従いたいと思った。


満員電車で潰されながら、始まる朝、今日も繰り返すあたりまえの都市のおだやかで不愉快な日常。
自分だけがなじめないのか?
皆、疑わずに毎日を戦っている。でも戦う相手は、戦うべき敵を本当に知っているだろうか?


まだ社会人になって5年も経たないある時期、、それまで続いた
都心への通勤スタイルをやめることが出来た。
あれこれまよいつつも
少なくとも電車に乗らないで通勤できる会社にチェンジした。

忙しい仕事だったがなんとか、仕事に自己満足していた。あっというまに時は経った。

30で結婚もした、親の勧めもあり中古マンションもローンを組んだ。
大人として家族にも会社にも貢献できる人になりたかった。
仕事をして帰ってきて、また仕事に行く、、それだけのあたりまえな平凡な
サラリーマン人生ではあったが一生安泰というほどの待遇ではもちろんなかったが
恵まれていることもたくさんあった。
いったい何に妥協して、何に不満があったのか、それすら
明確にする心の余裕がなかったのか。
夫婦で将来について語る時間すらつくれなかった。

生活も会社も小さな漠然とした不安は、少しずつ確かな亀裂として無視できないものになっていた。
きっと、そんな自分がいたからだろう、子供はつくらないつもりでずっと過ごしていた。
いや正確にはまだ母体のタイムリミットでなかったために答え決断を先送りにしていただけだ。
30代前半はそんなことより、生活のための経済活動で精一杯だった。

当時、いつも、寝ていると部屋の天井から上にある、3階層以上のフロア・コンクリートの構造が
気になった。薄い壁は隣の、そして上の生活を常に感じる古いマンション。
世田谷という立地だけの価値で今でも人気のある物件だ。

今、地震がきたら、そしてこの東京で瓦礫の下で死んだら、
生きていたとしても、仕事は存続しえないことはあきらかだ。
誰を責めることもできず、生きていたら負債だけが残る。
古いマンションだけに破綻は容易で明白な事実。
被災したその時、、それでも、
このままの生活を続けていた自分の判断に納得いくのだろうか?

では どうすればいいのか?
今、自分は、何を信頼して、何により頼んで生きているのか?
会社の未来? 給料? 仕事?

決して自分らしくない、、何かに自分をはめこむ毎日生活、その連続。
悪夢のようにパズルのピースがいつまでもたっても当てはまらない。
そう、当てはまるはずもない。
自分というパズルのピースを違う誰かのパズルに入れて完成をただ夢見ている
永遠につづく徒労ではないか。。。

しかしある日、全ての疑問が一つの答えに統合されて解決していく日が来た。
会社を離れることができる唯一の理由。
自分の人生の理由はどんなに尊敬できる人でろうとも
他人に託してはならないという、シンプルなことだった。
このままでは誰かのせいにしてしまう。
でも、決して自分は納得できないだろう。
あたりまえなことだ。
でも、大人も子供でも、、、
人はいつも気がつけば、誰かの、何かのせいにしていたりするもの。
珍しいことではない。根本的には、、誰にも責任を問えないなら、自分の納得できる生き方を選択しなければ。。
何もせず、無視し続けていたら自分の人生に対して 自分にすら、責任を問えないのだ。
自分の不安や疑問が解決しないまま人生をおくり、、晩年になり、
きっと 、誰も悪くないと、自分も悪くないと妥協しつづけるのがおちだろう。
誰のものでもない、自分の人生をおくることができたら
断末魔においても振り返って良し悪しとかでなく、それ自体ではいいはずだ。


妥協していいこと、そうでないこと
その見分けができないでいた。
ものごとの価値には順序があったのだ。
その積み木の順序をはじめて検証することができだした。

存在の危機に直結する世界一の危険都市=東京。
それは多くの基本的な感性の麻痺・価値観の喪失した人間社会という名の
神をも畏れぬ最も高慢な生き物の巣窟。
自らの拡大意識が、その集合と競争がもたらすものは
まやかしの現代人の繁栄という破滅的な増殖。

存在の原点。
生息地、、、妥協してそこにいたのでは、もはや生きたここちすらしない。

やがて
脱サラし、個人事業をスタートした。友人にも助けられた。パソコンの進化にも助けられた。
不安定な小さなビジネスに翻弄されつつ幸運にも
社会から下請けとして仕事をあたえてもらう日々がやってきた。
少し自分の存在が楽になった気がした。

ただこのまま都市に依存して食べていこうとしていては、、まだ危険な状況は変わらない。
まして仕事における不安と悩みは、たとえ拡大する野心がなかったとしても
サラリーのある会社員のそれと比較するとはるかに深刻だ。
ましてローンなど払っていける保証は何も無い。

もっと 自分の納得できる場所でやれる何かを今探しださなくてはと考えていた。

インターネット時代のモバイル機動力と、もとより仕事であったデザインの可能性を模索してそれまで
縁の無かった キャンピングカーの雑誌を手に取り近くのRVショップ展示場にいそいだ。
ただ感覚的にそう思っただけだが、何か形のあるものを見つけないと不安だった。
そこでトラベルトレーラーとモーターホームともに
エアストリームに出合った。父がパイロットだった基地に隣接して住んでいた70年代の日本で小学生の頃、
特別な遊び場だった飛行機公園を思い出した。
広大な基地の片隅に疲れはてたような巨大な空の怪物のような(子供の目には)機体は鎮座していた。
今思えば危険だが子供だけで自由に乗って遊んでよかった。グラマンやロッキードの廃棄された機体胴体そのなかは
文字通りUSAFアメリカの航空機産業が造りだしたホンモノの世界一高価なフルスケールのおもちゃ。

戦争の産物がこどもにとって無限の夢の世界になりえる瞬間だ。
無数の計器、むきだしのリベット、うす汚れ、狭く、丸く、長いしかし、美しい流線型空間。
コックピットの小さな窓からは田舎の大きな夕焼け空、 その光と機体のなかの不思議な香り。
時間が止まったような少年時代の一瞬の記憶が、
30もとうに過ぎた自分に本当の自分らしさを教えてくれている気がした。中古のエアストリームに出会った瞬間に。
子供じみた、童心に返るとか、、そういうことだけでない
理屈ぬきで何か大きな可能性を感じた。ビジネスライクな打算でもない。
肌が合うというのがありふれた答えなのだが
勝手に自分が決め付けているのかもしれない。
ただ、もう一つ、、その時
新品がいいなぁ
とは、決して思わない自分がいたことはある意味で今の実情を考えると
自分の要素と合致していたに違いない。
たぶん、そういう人間であったら、今の自分はないはずだ。

多くのアメリカ人のオーナーが楽しい思い出をつくったであろう古びたエアストリーム。
これがなぜか自分にどうしてもなんとかしたい世界だと思いはじめていた。
新製品や企画、デザイン、広告など新しい、ものづくりの現場に仕事として
関わっていた自分は、そのあまりに無駄の多い大企業競争の生産と販売のしくみ、
企業社会のありかたに疑問と諦めが
うずまく不信を常に抱えていた。

そして、新製品を上司に求められるままにデザインする事よりも本当に価値のあるものを
復活、社会に復権させるべきだと感じていた。またそれが企業の現社会での常識と矛盾する
ことも分かっていた。また、紙の上のデザインではなくて、短い人生のなかでもっとおもしろい生き方の
デザインができるほうが
すばらしいデザイン概念なんじゃないか?自分をデザインできなければ
他人に絵をかいてあげて何になるのか?

古くも凄いデザインや設計に対向して、必然的な必要性の無い新製品を世に送り出す理由はどこにあるのか?
そんなことで生き延びようとする企業は生命システムとして反社会的であり、最も愚かなデザインである。

この世の殆どの新製品というものが本日この時に無くても普段の人間生活は変わりようもない。
むしろ昔のものづくりがいいことのほうが多いのは周知の事実。

とにかくこのエアストリーム、、、本物をこの手にしなくてはならない!
その時、偶然かパソコン雑誌でEBAYのオークションサイトの記事が小さくでていたのを見つけた。
今でも切り抜いて持っているが、
そしてようやく自分の最も欲しいエアストリームを発見。
当時はまだ現在の平均の半値くらいのものもざらにあった。
アメリカのネット情報も今よりはるかに少なく何もよく知らないままで
とにかく、にすぐ入札していた。

すべては、2000年冬にebayで1台自分の生まれた製造年の
1964 BAMBI II を深夜に 落札したのがはじまりだった。
オークションのしくみすらよく理解せずに
なんと、落札した車両は2000年年末に記録的豪雪にみまわれたシカゴの片田舎だった。
輸入手続きについて何も知らなかった自分だが、お金をもってまず現地に行くしかなかった。

いよいよ、プランがまとまってきた。エアストリームは輸入した。
エアストリームでやれることをやってみるしかない。
今のマンション生活の場を離れ、地面に住もう。

しかも車両はすでに1台モーターホームに、5台のトレーラー都内では保管すらできない。
関東近県エリアで貸地か倉庫か、、でもアパートくらいの家賃しか払えない!
西へ東へ北へ探しはじめた。
そして千葉にたどりついた。 たまたま不動産屋で紹介された、まだ誰も借りていない
駐車場がまるまるある。。全部で7万月極。。
これなら、アパート家賃くらいで、全部の車両も保管でき、トレーラーに住める。
何か大きく、急に展開していった。
妻には悪いが、これしか道が無かったので
土地の決定する日に住む為のエアストリーム31フィートをEBAYで落札するため
パソコンのエンターキーを押していただいた。その瞬間落札した。


その夏、世田谷のちっぽけなマンションを売り払い、ローンから解放されて、、
マンションのキーを不動産屋に渡すその日
家としてエアストリームに帰る日がやってきた。
エアストリームの"ARGOSY"モーターホームで引越し
千葉市郊外の大宮台に駐車場をまるまる借り、エアストリームに引越し、、住む!
その日からエアストリームが家になった。
さすがの自分も、少し不安だった。これもしかして続かないかなぁ??
しかし、、学生時代の六畳のぼろアパートより
はるかに快適で、単純にかっこいい、楽しい生活なのだ。

狭い空間に住むわけだが敷地は都心に比べるととても広い。
庭は駐車場だが開放感はまあまあ。道路に面していたのでプライバシー確保のためにも
車両安全保管のためにも、安い板で大げさな扉をつくった。

マンションで育った妻はかなりショックだったようだが少しずつ楽しめるように
なっていった。普通の人ではこうもいかない。とっくに離婚だったろう。まだ子供もいないし。

雪も雨も台風もあった、地震もあった、暑い夏も風の日もエアストリームがマイホームだった。
エアストリームのキャンプから帰って落ち着くのはやっぱりエアストリームの風呂のなかだった。
いつのまにか40過ぎていたら子供が産まれた。2人も。
この子たちの生家、実家はエアストリーム 31フィート。その名も独立国というSOVEREIGN

そして今、昨年移転により土地を拡大。土気に程近い静かな土地でこれからの出会いに準備の日々。
もうすぐあれから10年。いろんな人に出会い、助けられ家族とともになんとか生きてこれた。この場をかりて感謝!

エアストリームカフェ代表 岡本博志 
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